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スコット・フィッツジェラルドの本『グレート・ギャツビー』村上春樹訳版

この作品は、以前野崎 孝氏訳の新潮文庫版を読んだ事があったのですが、正直あまり印象に残らない作品でした。

唯一印象に残ったのは、「成り上がり」としてのギャッツビーのキャラクターだけでした。

富と名声と美女を追い求める青年、ギャッツビー。そこに著者はアメリカン・ドリームがいかに虚像であるかを描いていたのだと思った記憶があります。

ところがこの村上春樹訳を読んでみて、この作品の美しさと儚さを初めて認識させられました。

もちろんあとがきで村上氏本人も述べているように、役者自身がフィッツジェラルドの文章の美しさを意識していたということの影響も多分にあるのかもしれませんが、村上氏の言うとおり、最後の数行は本当に美しいと思いました。

もう一つ、気付いたことは、村上訳ではギャッツビーのキャラクターが非常に人間臭く描かれており、また語り手であるニックも、単なる傍観者ではなく、主人公の一人として重要な役割を果たしているということです。

そしてこの戦地から帰った二人が、お互いを見つめ合いながら、深く理解し合っていくその描写は非常に胸を打つものがあります。

真の意味では誰からも愛されなかったギャッツビー・・・。

しかしその男の真の価値を自分は知っている。

そんなニックの強い思いが、全編を通じてひしひしと伝わってきます。

ギャッツビーにとってデイジーとは富であり、名声であったわけですが、それを追い求める彼の姿はどこか悲しげです。

そこには自分の虚栄心を満たす何かはあっても、自分を高めてくれる何かはないからです。

ニックは、そんな悲しい友の姿に、深く同情します。

なぜニックがギャッツビーに同情できたり、共感したりできたのかは考えてみる価値のある問題だと思います。

ギャッツビーは、貧しさの中から成りあがった若者であり、ニックは地元ではそこそこ名の通った名家(とはいっても中流くらい)の出身です。

ただ、彼らに共通しているのは、中西部の出身であるということと、かつて軍隊に所属していたということのみです。

もちろんデイジーという共通の知人がいることが彼らを引き合わせた直接のきっかけですが、彼らを強いきずなで結びつけたのは、やはり上に挙げた二つの共通点なのではないでしょうか?

アメリカの中西部と言えば、大統領選挙では必ず共和党が勝つような保守的な土地であり、今もアメリカ開拓時代の精神が強く残っている土地ですが、どちらかというとアメリカの中では田舎になります。

きっとニックやギャッツビーのような中西部の若者にとって、東部への憧れは非常に強かったと考えられます。

そしてその憧れの強さは、必然的にその期待に裏切られた時のショックの強さに比例します。

物語の結末で、ニックは田舎に帰ることにしますが、これは彼の中で、ギャッツビーの死とともに、東部へのあこがれが終わったことを意味していたのだと思います。

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